木場の歴史と現在|材木置場、歓楽街、そして今の住宅地の魅力

木場の歴史と洲崎遊郭:材木の街、歓楽街、そして現代の住宅地としての変遷

東京都江東区木場。このエリアは材木の街として発展し、現在では住宅地や公園が広がる落ち着いた街として親しまれています。しかし、木場周辺にはかつて「洲崎遊郭」と呼ばれる大規模な歓楽街があり、東京の歓楽街として一時代を築きました。材木と歓楽街、そして現代の住宅地としての表と裏の顔が交錯する木場エリアの過去と現在に迫ります。


1. 木場の始まり:材木の街としての発展

木場の歴史は1701年、火災対策として深川の埋め立て地が材木置場に指定されたことに始まります。翌1703年には「木場町」として命名され、多くの材木商が集まり、材木の取引と管理を行っていた活気あるエリアとして発展しました。川並衆による木遣いの歌が響き渡り、材木の街として栄えていた木場は、江戸の人々の生活を支える重要な拠点でした。

その後、地盤沈下や工業地としての役割の変化から、1969年には貯木場が新木場へと移転。跡地は埋め立てられ、現在の木場公園として整備されました。材木の街としての面影は残るものの、今では広々とした公園と住宅街が広がり、穏やかな暮らしが営まれています。


2. 洲崎遊郭:東京を代表する歓楽街の誕生と栄華

木場周辺のエリアには、1888年に「洲崎遊郭」が誕生しました。当時、根津にあった遊郭が移転して「深川洲崎遊郭」として開業し、江東区東陽一丁目にあったこの遊郭は、吉原遊郭を超えるほどの広さを持つ5万坪もの敷地を誇りました。

大正時代末期になると、洲崎遊郭は約300軒もの遊郭が軒を連ね、「辰巳(たつみ)」という異名で呼ばれるほど繁栄を極めました。洲崎遊郭は、吉原遊郭と並ぶ東京の大歓楽街として発展し、広大な敷地内には「洲崎大門」と呼ばれる象徴的な門が設置され、多くの人々で賑わいました。この大門は戦後「洲崎パラダイス」として再び名前を知られるようになりますが、当時の繁栄を示す象徴的な存在でした。


3. 洲崎遊郭の衰退と終焉

戦時下に入ると、1943年に洲崎遊郭の閉鎖令が出され、歓楽街としての機能は一旦終息します。跡地には軍需工場が立地されることになり、賑やかだった遊郭の面影が少しずつ失われていきました。しかし、1945年3月の東京大空襲でこのエリアは大きな被害を受け、洲崎遊郭の施設はほぼ完全に焼失。さらに、1958年に売春防止法が成立したことで、洲崎遊郭は完全に姿を消すこととなります。

現在では、かつての遊郭の名残はほとんど見られませんが、歴史の中で一時期、木場とその周辺が東京の歓楽街として多くの人々に親しまれた時代があったことは、興味深い過去の一面として語り継がれています。


4. 木場の治安と住宅地としての現在

木場は、再開発が進む住宅地として利便性の高いエリアとなりましたが、かつて歓楽街があった名残を感じさせる影が少し残っています。2021年のデータによると、木場1〜6丁目で98件の犯罪が報告されており、特に万引き事件が多発しているものの、深川警察署によるパトロール強化が進められ、住民にとっては比較的安心して暮らせる街として評価されています。

木場駅周辺には築年数の古い物件も多く、家賃相場が比較的低めのため、手頃な価格で都心に近い住宅地を求める人々に人気です。一方、木場公園や大横川沿いの緑地など、豊かな自然環境も充実しており、生活の中に「ほっと一息つける場」があるのもこの街の魅力です。


5. 新旧の魅力が共存する現代の木場

木場は現在、住宅地としての利便性と豊かな自然が融合したエリアとして、多くの世代に親しまれています。大型商業施設やイトーヨーカドーなどの店舗も充実しており、日常生活の便利さが保たれている一方で、江戸時代からの歴史が刻まれたエリアや、かつての歓楽街としての一面も感じられます。現在の木場は、「材木の街」「歓楽街」「住宅地」という三つの異なる顔を持つエリアとして、独特の多様性を誇っています。


木場の多層的な魅力に触れる

木場は、材木の街から始まり、洲崎遊郭という歓楽街としての繁栄、そして現在の住宅街としての姿へと変貌を遂げてきました。東京の表と裏の歴史が交錯する木場は、今もどこか懐かしさを感じさせつつも、新しい生活が息づく街です。再開発が進む現代においても、歴史を残しつつ進化し続ける木場は、訪れる人々にさまざまな発見と魅力を提供してくれるエリアです。

もし、過去と現代が共存する東京のエリアを訪れてみたいなら、木場を歩き、その多層的な魅力に触れてみてはいかがでしょうか?